なにものにも偏しない

中立公正、不偏不党ということだが、それは同時に、なにものも成し得ないということでもある。
或いは、巷間それを独自の、独創的などと言うようだが、その実、個人的、無手勝流ということである。


なにかに偏することをしばしば偏見と見なすが、実はそう見なすこと自体が偏見なのであるが、別の見方をすれば、専門的なのであって、それは人々に共有され得るものである。
他方、なにものにも偏せずによいものをあまねく収集し、それぞれの長所を一緒にしてよりよい地点を目指す、そうやって新境地を切り開こうという姿勢は、一見頼もしく映らなくもない。が、その行き着くところは、「寿陵の余子」*に同じく、なにも得られず、またなにも成せないという悲惨な結末である。たとえ形を成したところで、それはなんの専門性もない雑多なものでしかなく、誰とも共有し得ない一代限りの産物に終わる。
  *諺「邯鄲の歩み」の出典となった『荘子』秋水篇の故事に出てくる燕の寿陵に住む若者のこと。彼は都会である趙の邯鄲に歩き方を習いに行ったが、会得できないうちに自国の歩き方をも忘れ、四つん這いで帰ったという。本分を忘れて他をまねる(学ぶ)者は、両方とも失うことの喩え話である。兎を追うならば、きっと一兎にするのがよい、要はそういうことである。


そもそも人は、何かを選び(そのために何かを捨て)、属すことになる。そうせずに複数を選び、所属するのは、やさしく言えば優柔不断、悪く言えば無節操である。


ゲーテは、『警句的』の中で「独創的な人々に」と題した格言を残している。
某氏は言う。「わしはどの派にも属さない。わしが競うに足るような大家は生きていない。と言って、わしは故人から学ぶほど、おろかものでもない。」
この意味を、正しく理解すると、「わしはお手製のばかものだ」ということになる。(高橋健二訳、『ゲーテ格言集』、新潮文庫、174頁より)

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