軽身重財

「身を軽んじて財を重んず」。

『史記』扁鵲伝に見える病を不治にせしめる六つの条件(六不治)の中の一つである。

これまで、字面の通り、お金のことを気にして治療をひかえる人は、えてして治るものも治らないのだ、というくらいにしか考えていなかったし、家計の苦しい人ほど熱心に治療する傾向にあるということが、その裏返しとしての「身を重んじて財を生かす人」なのだ、という程度の理解であった。
けれども、久々にこの四字に接した瞬間、いくつかの出来事が頭をよぎり、その言葉の範囲がいっそう広がった。

その人にとっての治療の必要性、あるいは治療に対する真剣さと言ってもよいが、それは治療費の高さに比例し、治効にも直結している。
健康保険の適用は、長く続けることを前提にした負担の軽減策として考えられているものだとばかり思いこんでいたが、多くは治療費をただ問題にしているだけである。事実、治療費を問題にする人だけでなく、健康保険の適用のことをまず口にする人も、どんなにひどい症状を訴えていても(どうにかして治したいというほどの状況でもないのだろう)、ほとんど治療を継続したためしがない。
もう一つ。これは、あるいは別の条件の「驕恣不論於理(驕恣にて理を論ぜず)」に該当するかもしれないが、診もしないうちから電話などで、「○○は治りますか、どれくらいで治りますか」と問うだけ問うて、治療はしないということもしばしばである。治療費のことまでも聞かれる場合もあるが、そうでなくとも、言外にその問題が含まれていることは疑い無い。
わずか四字に、こうしたことまでも含まれていることに、ふと気づくに至ったのである。

「その文、簡にして、その意は博し」、とはまさにこのことである。

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