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「非常識」な東洋医学 覚書

非常識であるが故に⑤

インフルエンザのワクチン接種をするのしないのという話題が持ちきりの今日この頃

カゼをひくのも

インフルやコロナに罹るのも

嫌なのはわかる

でも

なる時はなるしならない時はならない

なったらなった時

大人が怖がっていては誰もが怖がるようになる

風邪だからどうした

インフル、コロナに罹ったら寝とけ

怖がるなら日頃から自分の体を気遣え

くらいにかまえられませんか

本当にみっともないですよ

自分ではなにもしないで

ひたすら

怖いの

なりたくないの

とばかり言って

薬とワクチンに頼るその姿は

なにもわからない子供じゃあるまいし

あ、ついでに言っておけば

ワクチンビジネスにおどらされているなんて知らないですものね

広告や宣伝は

別名をマインドコントロール、洗脳と言うんですよ

「大衆は常に間違う」なんて言葉をご存知ない方は

これを機にお調べになるとよいですよ

あるいは

その気があれば

私でよければ相談にのります

もちろん相談料をちょうだいしますよ

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「非常識」な東洋医学 覚書

非常識であるが故に④

「現代医学が常識なら、東洋医学は非常識」

「医」は、医する者の術だけでは成り立たない。

「治してやる」という医する者の思いあがりも、「治すのが当たり前」という病める者の思いちがいも、互いにとっては不幸のもと。

互いに求められているのは「礼節」と「同意」

よほどでない限り、患者は「効かない」「ヤブ」など軽々に口にするものではない(客観的にみれば、そのような病状に至った経緯にまで術者が負う責任はない)。

術者は「なぜもっと早くこなかったのか」「なぜこうなるまでほってたのか」「こんなことをしたらそうなるにきまってる」などの叱責は厳に慎まなければならない。

術者は、まずは「ねぎらい」を。
依頼を受ける側の不必要な威厳の誇示であり、ただの「後出しジャンケン」。あるいは、つい自分が軽んぜられたという錯覚、悔しさ、憎悪のようなごく個人的な感情も多分に含まれているのかもしれない。
こうなるまでほうっておいたのは、本人がギリギリまでまったく気づかずにいたり、あるいは(恐怖や金銭的な問題など様々な理由によって)我慢していたり、あるいは無理に連れて来られたということもあるだろう。事情の奈何を問わず、患者のやっとの思いで来たことそれ自体がまずねぎらわれるべきだろう。
「診察」や「治療」は然る後のことである。
さらに言えば、ずっと見守っていた家族が、不当にも術者(時に警察)からその責めを受ける場合もあるが、同様に「よくぞここまで」くらいの「思いやり」や「ねぎらい」があってしかるべきではないか。
注意を怠ったなどと嫌疑をかけるなどもってのほかだし、たとえそうであってもそれは「本人の強い願い」かも知れないのだから。
とかく家族の問題に深く関わること故、軽々に叱責などできはしない。

「こんな私をお願いします」

「承ります。よくここまで頑張りましたね」

ともに「敬意」と「謙虚さ」を。

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「非常識」な東洋医学 覚書

非常識であるが故に③

「現代医学が常識なら、東洋医学は非常識」

鍼灸を受ける人の多くは、未知からくる過剰な期待と、それ以上の懐疑を胸に隠してやってくる。

思うように治らなければ「まったく効かない」。
期待以上の効果があれば過剰なまでの高評価。
「魔法みたい」、「名人」、はては「神の手」。

実際は、「簡単なものは誰がやっても簡単」だし、「難しいものはだれがやっても難しい」。
なぜなら患者の病状が治りを左右するのだから(人は「自然に治るもの」であり、「自力に頼る」しかない。「自然に治らない不調」は、頼るべき「自力が弱っている状態」)。
術者の技量は当然のこと。
相互理解には「診察」と「診断」が不可欠だ。

患者の病状がわからなければ、術者も患者以上に治療の結果に一喜一憂することになるだろう。術者の多くは責任感が強いから。
しかし、客観的にみれば、そのような病状に至った経緯にまで術者が負う責任はない

「すぐに治らないから効かない」と双方が即断することの中に大きな誤解がある。

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「非常識」な東洋医学 覚書

非常識であるが故に②

「現代医学が常識なら、東洋医学は非常識」

「理屈はいいから早く治せ」という患者の態度。
「治せなければ意味がない」という医する者の自責。
いずれもただの思いあがりだ。

特に「非常識」な東洋医学にあっては、すでに述べた「診察」と「診断」を無視した暴言に近いものとなる。

「医」の前提には互いの「礼節」と「同意」がなければならない。

患者は理由の如何を問わず医する者に治療を頼む以上は、まずは頭をさげるもの。

医する者も頭をさげてつつしんで治療を引き受けるもの。

これが「礼節」。

患者は治療を引き受ける者にすべての責任を負わせられない。
依頼の必要性がまったく治療者側の責任によってはいないから(「病」をその人から切り離して考えることができないのが「非常識」な東洋医学)。

依頼を受ける者は一定の責任を負う以上、治療を引き受けられるか否か、どこまで引き受けられるかの判断(診察と診断)と説明が最初の責務となる。

事に及ぶ前には、こうした双方の「同意」がいる。

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「非常識」な東洋医学 覚書

非常識であるが故に①

「現代医学が常識なら、東洋医学は非常識」

鍼灸を業としてそれなりの時間がすぎたが、鍼灸を「常識」として受け止めている人に出会ったことはない。それは、同業者でもさほど変わりはない。

また、鍼灸のことを、これまでの「常識」にてらして、何かを取り除いたり抑えることで「治してもらえる」ものとも考えている人が多い。

実際は、いたって堅実なものだ。

人は「自然に治るもの」であり、「自力に頼る」しかない。
「自然に治らない不調」は、頼るべき「自力が弱っている状態」。

鍼灸の仕事は、その「弱っている自力」を助けることで「自然に治る」よう仕向けること。

そうするために必要となるのが、その人の「現在」、「過去」、そして「未来」のこと。

まずは「現在」。現状の確認。
「自力」が「どれくらい」「どう」弱っているのか。

次は「過去」。今に至る理由の調査。過去の整理。
「自力」が「なぜ」弱ったのか。
「病」は「経歴」。今は今だが、すべては過去に由来している。

最後に「未来」。予後の判断。
「どれくらい」戻るのか、「どう」戻るのか、「そもそも」戻るのか。
「未来」は今の連続。先のことは「過去」の結果としての「現在」から予測できる。

これらをすべて「診察」と「診断」と言う。

「治療」は、その先にある。

「常識」的には迂遠に感じるかもしれないが、「病」をその人から切り離して考えることができないのが「非常識」な東洋医学

「理屈はいいから早く治せ」と言われても、鍼灸は融通がきかない。

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