私が佐々木岌D.C.(日限山のカイロプラクティックケアセンター)より指導を受けるにあたり、まず言われたのは「見て覚えて」でした。
これには面食らいましたし、正直、とても習得できないのではないかとさえ思いました*1。もちろん質問は許されていますが、「一から十まで」という意味ではなく、どうしてもわからないところがあればということでしたから。
佐々木D.C.の施術(トムソンテクニックを敷衍し、時にディバーシファイドテクニックを用い、さらに合わせ技もある)は、実際に「できる」かは別にして、まったく「簡潔明瞭」で、確かに「見て覚える」ことのできるものでした*2。
また、学び始めた2020年の上半期はコロナ騒動の最初期で、来院者数が格段に減り、ひとりひとりの施術をじっくり見学する機会があったことは幸運とも言うべき時間となりました。なぜか。予約の空きがなければ、朝一番の患者さんの施術を見て、その日が終わるまで鄰のベッドでひらすら矯正後の超音波治療に従事する日々となり、ほぼ見学できない時間を過ごすことになるからです(今でもですが)。2020年下半期には来院者数はもどりはじめ、早々に「見て」学ぶ機会が激減してしまいました。そんな中、役に立ったのが矯正に用いるトムソンベッドの動作音(落とす音とタイミング)と患者さんとの会話(主訴、骨格のズレやゆがみの指摘、矯正後の確認など)でした。すでに「見てきた施術」から「何をどう診て」「どう矯正するか」をある程度は理解していたため、それらを聞くことで全体像を想い描くことができたのです。時に「見た」ことのない症状や矯正などがあっても、おおむね「何をしているか」はわかりますし、それでも想像できない場合や念のため確認したい時には部分的に質問すればすぐに教えてもらえました。それもちょっとした「一言」で。ここに、診察と矯正がいかに「簡潔明瞭」であるかが現れています。
「簡潔明瞭」さは、鍼灸も同じですが、大きな違いは「見て覚えられる」かどうかです。鍼灸は、「見て」わかるのは「動作」だけで、「何をどう診て」「何のために鍼や灸をしているのか」まではわかりません。問診でさえ、主訴までで、その背景や経緯、さらには睡眠や飲食大小便などの周辺のことを聞いて、それらをどう診察診断しているのかまではわからないでしょう。まして、肥痩、顔や肌の色、声の高低大小さえも診ていることなどまったく伝わらないでしょう。脈診に至ってはその動作はわかっても、何を基準に判断し、どう治療にいかしているかなど、知りようもないのです。このように端から眺めて感得できるようになっておらず、東洋医学の考え方を知らないとほとんど理解できないのです。
こう書くと、あたかもカイロプラクティックがたいしたことがないように読めてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。言いたいことは、ここからです。
いかにカイロプラクティックのテクニックが難しいかということです。「簡潔明瞭」だからこそ「見て何をしているかがわかる」わけですが、実際に問題箇所の確認や矯正そのものを正確に「できる」ということとはまったく別の問題です。鍼灸にもそれぞれに技法があり、やや乱暴になりますが、基本的には「穴(ツボ)を取れる」「痛くない」「熱くない」という要件を満たすだけでよく、まじめに練習すればすぐにできるようなものです。一方、カイロプラクティックは問題箇所をさぐりあてることでさえ、「見た目」ほど容易ではなく、まして矯正ともなると、問題箇所にきちっと手を当てることからはじまり、体格や骨(関節)、周辺の筋肉の状況に応じた力加減や角度、深さというものが重要になってきます(こういうことが必要とわかること自体が簡単ではありません)。これは本当に難しい。骨格の問題(ズレやゆがみ)がわかればそれらをもどせばよいという「考え方」は「頭」で簡単に理解できても、「手」で問題の骨をどう動かすかという「意図」と「手技」はまったく別次元のこと。鍼灸では味わったことのない苦労でしたし、今なお追求し続けていることでもあります。
誤解を恐れずに言えば、鍼灸は「考え方」を座学によって学ぶことが大切であり*3、カイロプラクティックは「見て」学べる「考え方」の先の「手技」が重要という違いがあると、私は感じています。鍼灸は内(気の滞り・偏在に伴う諸機能の不全)の、カイロは外(骨格のゆがみ・ズレによる神経圧迫や筋肉の異常)の問題を見つけ調整していく治療であるが故の学び方の差とも言えます。
佐々木D.C.が今なおトムソンテクニックを敷衍しているように、私もまた鍼灸とカイロプラクティックを「両輪」の関係として行使できる私にしかできないこと*4も含め、日々、応用するという具合に、引き続き研鑽に務めてまいります。
*1:私の専門である鍼灸は、3年間の講習会と勉強会を経て、それも座学と実技の両方をみっちりやって、ようやく一通り身につけ、またさらなる継続と仕事を通じて深化していくというものでした。
*2:カイロプラクティックには、重点の置き場や矯正方法の違いによるいくつかのテクニックがあり、すべてがそうではないとは思います。また、あとでも触れますが、カイロプラクティックの難しさは、私にとっては「テクニック」でした。
*3:鍼灸(東洋医学)は、経験則と思われがちですが、もちろん立場によっても異なるわけですが、少なくとも私のよりどころとする井上系経絡治療はシステマティックな医学であり、その根幹は陰陽五行です。SEKAI NO OWARIの歌の歌詞を借りれば、そう「なんでもかんでも分類、区別、ジャンル分けしたがる」bad habitな医学と言えます。 人は「そんなシンプルじゃないもっと曖昧で繊細で不明瞭なナニカ」だからこそ、治療には秩序立てる診察が必要となり、病態にあわせた治療の方向性やそのための経絡やツボを選ぶための「考え方」が極めて重要になるのです。治療に用いるべきツボが決まれば、あとはそこに鍼または灸をするだけで、そこで特別な何かをすることはないのです。鍼や灸の技術はどうするか、ということもありますが、現時点での病能把握(虚実)では、鍼は「痛くないように刺す(補)」「痛く刺す(瀉)」のふたつしかありません。また、経絡治療は鍼の医学のため、灸については井上系特有の「熱くなったらとる」知熱灸と、「熱くない」点灸の二種になります。また、一般的に言われている「熱く感じない時は熱く感じるまで」「最初からとても熱く感じる場合は熱く感じなくなるまで」といったことも考慮します。
*4:自画自賛するわけではありませんが、カイロの理解が深まることで、関節のズレやゆがみを、動きを介した細かな変化や全体の関係性の視点からもわかるようになり、鍼灸の知識や経験もあいまって、矯正の幅も日々広がっています。これも鍼灸では感じられないことのひとつであり、カイロの特徴なのだろうと理解しています。
個人的にはビリヤードに似ていると感じます。ただ球を撞くだけにせず、ひとたび本格的に向き合ったなら、一気に奥深いものになります。撞く前にまず配置から取り切る計画(思考)と必要な撞き方(テクニック)を思い描きます。そして、実際に撞く際には、自分の持てる技術がそれを実現できるかという「考え方」と「技術」の両立が要求されます。つまり、どんな球にするかは、次、またその次の配置を考えつつ、「思考」と「自分の技術」の兼ね合いで決めていくことになります(そこには、患者の病態に影響を及ぼす環境と同じく、部屋の湿度や温度、台のラシャの状態といった状況も含まれます)。球の種類は、押し引き、捻りといった撞点(上下左右)による変化が中心となりますが、キューを振る速さ、角度、奥行き、それを制御する肩、肘、手首の力加減と握る強さ、撞く瞬間の調節、もっと言えば上半身の高さ(目線を含む)、そこに力を伝える下半身、特に重心の取り方や移動、それに伴う足の指の使い方など、技術による調整も加味します。一連のことができると、別の撞き方で同じ結果を出せることに通じるため、撞き方(組み合わせ、調整の仕方)は無限(無段階)になります。その幅を可能な限り広げ、すべてにおいて安定させていくことで、おもしろさは増し、さらなる上達にもつながっていきます。こうしたことをふまえ、頭で組み立て撞くまでを想像し、実際に撞く。結果からまた考える。選択はよかったのか、想像通り撞けたのか、よりよい選択はあったのか、と。その反復。そして、最善を探し続けること。撞いた刹那の自分と球との会話と言えばよいのでしょうか、失敗すら有益な情報になります。「こうしてしまったからこうなった、ならばこうすればよいのでは」、「こうしたらどうなる?」、「あれはこうだからこうなるはずだ」、「だからこの場合はこうしよう」といった具合に。このようにどれだけ情報を受け取り対応できるか、それも瞬時に。直感に近づけるために。高い集中力を長く維持することは体力的にも精神的にも難しいですから。長くなりましたが、この追及の仕方、気付き、応用が、カイロでは多々あるのです。
当方を頼ってくださる方には、その時々にできうることをしますし、長く来院される方には、私の成長変化も感じていただけるかと思います。
一方、山田は学び始めた当初から佐々木D.C.に「思い切りがよい」と評され、私から見れば天才肌。テクニックはあっという間に習得してしまいました。よく見えているのでしょうが、ものによっては見てもいないにも関わらず、こちらが口頭で伝えただけで瞬時にということもあります。
私は佐々木D.C.からは「考え方」について「飲み込みが早い」「センスがある」、山田からは「一を聞いて十を知るタイプ」と言われ、「考え方」は早い段階から理解できていたと思いますが、テクニックの基本ができるようになるまでも本当に苦労しました。不器用ですから、人よりも努力が必要です。